臨済宗 妙心寺派 牛臥山 林昌寺ぎゅうがさん

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牛臥山 林昌寺について About us

林昌寺の歴史

林昌寺は、臨済宗妙心寺派の寺で、500年前(室町時代)からこの地にあります。本尊は薬師如来で、正式には牛臥山(ぎゅうがさん)林昌寺と称します。名前の由来は、寺の東にある臥牛山(=牛が伏せている形の山)と開山者の名前の一部を取って命名されたと伝わっています。開山は廻間の住人で林氏昌則であるとされており、牛臥山で狐や兎を獲る猟師でした。その後、1906年(明治39年)には火災のため本堂などを焼失しましたが、1915年に(大正4年)再建され現在に至っています。林昌寺は木附・外之原・細野を含めた外之原郷で唯一つの寺で、ほとんどの家が檀家になっています。

林昌寺縁起書

林昌寺創建は延徳2年(1490年)、觀空由公和尚によりなされる。
觀空由公和尚、元の名は坂下村(現坂下町)廻間の住人、林氏昌則という。昌則は専ら狩をその生業としたが、ある時臥牛山山中に迷う。その時に光を放つ火の玉の如きものが近づくことを怪しみ弓矢を放つ。その火の玉の如きものは二つに割れ、その光は次第に小さくなった。昌則が自らその場に近づくと一匹の黒白の狐が矢を口に含み何事か語ろうとする様であった。その時昌則は五体にしびれを感じ「この狐は臥牛山の主であったか・・・。知らずとはいえ何というもったいないことを。」と思い、弓をなげすて礼拝すると目前の狐の姿は消え失せた。
その後に昌則が臥牛山山頂に登るとその東隅に石室があり、そこには稲荷大明神の立像と先程の矢があった。昌則はこれを縁として自ら殺傷を禁じ、愛知郡稲葉村(現名古屋市内)龍雲寺住持、實鑑阿闍梨について得度し仏門に入り臥牛山の麓なる虎敷(現外之原町)に一宇を建て薬師如来を安置し92年の天寿を全うした。その昌則改め觀空由公和尚遷化の夜、臥牛山全山が狐火につつまれるが如き奇観を呈したという。
以上これが林昌寺開基縁起である。

この後、薬師如来を信仰する出川村大工、藤左右衛門なるものにより現在の林昌寺の地に二間四面の堂を建立されるという。(この堂は明治39年の火災により焼失。)
二世は春日井密蔵院弟子、惠宗庵主が来る。惠宗庵主は大永4年(1524年)示寂。
三世は随岳律師が来るがその終わりは知らず。
この後百数十年を無住持の真言宗寺院として過ごす。

鐡翁自山首座の代に至り、要門如是の徳を慕いて真言宗より臨済宗へと転帰し禅門となし、要門如是を尊び中興開山と仰ぎ鐡翁自山は自らその二世となった。
時の寺社奉行、蟹江覚左右衛門巡村の折り、觀空由公開基の因縁に依り山号を臥牛山より牛臥山と改め林氏昌則の二字をとり林昌寺と称し現在の地に本堂、庫裡を建立した。天和3年(1683年)9月のことである。以来外之原村(現外之原町、細野町、木附町)各家を惣旦那とし代を重ねる。
觀空由公より九世(禅門六世)圭峯惠鎭が天保8年(1837年)示寂の後、十世(禅門七世)様岩文摸が明治3年頃入山するまで凡そ三十年間無住持となる。また十一世(禅門八世)叟山宣詮明治25年示寂後凡そ六年間無住持となり丹羽郡余野、徳林寺龍源和尚徒弟、十二世(禅門九世)實應和尚の入山を迎える。
この實應和尚の代明治39年(1906年)2月15日午前5時20分、火災が罹り塔中堂宇ほとんどが焼失した。免れたのものは本尊の他、僅かの像のみであった。
しかし實應和尚復興に尽力し本堂、庫裡、諸堂を再建した。現在の本堂がこれである。
以来十三世(禅門十世)楚山惠皎と代を重ね、現在の十四世(禅門十一世)祐介惠信へと至る。

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